赤毛のアン

こんにちは。グリーンゲイブルズのともおです。嘘です。赤い文化住宅のともおでさえありません。1908年(明治時代ですね、日本は)に出版された『赤毛のアン』も今年、生誕100周年を迎えるということで、おそらく、沢山の関連本が出版されたり、イベントが行われることでしょう。ということで、今、あえて『赤毛のアン』を読む、と題して、数十年ぶりにアンの世界に挑んでみました。今回の訳は、村岡花子先生ではなく、松本侑子おねえさんでお送りします(僕の中で松本侑子さんは、いまだにお天気おねえさんのイメージなのですが、皆さんはどうか)。前フリは、少なめで、そこそこでクライマックスだ、と。

 

激しくイタイ人。それが、アン・シャーリー。赤毛の十一歳の少女にして、孤児院出身の変わり者。なんでもない田園風景を「歓びの白い路」だの「恋人たちの小径」だのと勝手に名前をつけて呼んでみたり、自分の名前を呼ぶときはアン(Ann)のあとに頭の中でeを付けて、アン(Anne)のつもりで呼んでくれだの、植物にいきなり「ボニー」だの「雪の女王様」だのと名前をつけてみたり、朝からハイテンションで『こんな美しい朝には、世界中を愛している、っていう気にならない?』などと本気で言いだす天然の人。なるべくなら近寄りたくない、ちょっと手に負えない感じです。後の世の児童文学で言えばスター☆ガール並みの暴走少女なのですが、二十世紀初頭の牧歌的田園風景の中では、まだ許容範囲であったのか、遠巻きにされて生暖かい視線を送られることもなく、地域コミュニティに溶け込むことができた果報者です。年をとった二人暮らしのマシューとマリラのカスバート兄妹は、農作業を手伝わせるために、孤児院から男の子を貰おうとしていました。ところが、マシューが迎えに行った駅に降り立っていたのは、どうした手違いか、男の子ではなく、そばかすだらけの赤毛のやせっぽちな女の子、しかも彼女は「なみなみならぬ魂の持ち主」だったのです。この女の子、しゃべる、しゃべる、しゃべり倒す、しかもほとんど妄想めいた戯言ばかり。果たして、女の子が死ぬほど苦手だったはずのマシューは、この子をいたく気に入ってしまい、内気な彼には珍しく、妹のマリラに、彼女を引きとることを提案してしまうのです。さて、兄と違って、情にほだされない気丈なマリラは冷静に考えます。アンは、親の縁にめぐまれず、これまで誰にもかえりみられないまま、愛情の足りない生活を送ってきている。はじめて、自分の家を見つけて喜んでいるのを追い返すのは、さすがにしのびない。おしゃべりだけれど、注意すればなおるし、気だても良いし、躾けやすいのではないか。ちゃんとした少女に育てられる可能性を目論んで、マリラは決断します。あとのことは、神のみぞ知る、と思い切り、「初老の独り者の男」と「いい年をした独身女」のカスバート兄妹は、アンを養女に迎えることにしました。さて、ここから喜びに満ちた、グリーンゲイブルズのアンの輝ける日々が始まり、そして、カスバート兄妹の手探りの子育ての日々も始まるのです。

 

以前、副編集長B氏と『赤毛のアン』について話をしていた際に(男子会社員の居酒屋での話題の七割は欧米家庭小説についてです。嘘ですが)、氏が、アンは登場人物の誰の視点から読むべきか、という問題提起をされていたのが印象に残っていました。僕は、十代で読んだ時でさえマシュー視点という、当時から既に、アンには距離を置いていたオヤジモードだったのですが、今回、読んでみて感じたのは、ウェットでも冷徹でもない、非常にフラットな魂の持ち主である大人としてのマリラへの共感と、アンに対する遠大な距離感でした。夫婦ならぬ兄妹二人の教育上の役割分担なども、あらためて注目できた点で、なるほど、誰に視点を置くかによって随分と読み方は違ってくるし、それはすなわち、それぞれの人物が描けているということなんですね。今回は、この物語世界が、アン、という無茶苦茶な少女を許容する、アヴォンリーの「善良なる村人」たちの好意によって成り立っていることを、より感じさせられた読書でした。アンは、計算高くはないものの、悪ノリするタイプで、その頭の回転の速さと、言葉まわしで、大人たちを煙に巻く力を持っています。ナチュラルに邪気がないので、逆に、始末におけないトラブルメーカーでもある。アンが、手放しの自由さで周囲を翻弄していくのはどうにも煩わしいし、そのくせ、時折、おセンチ(死語)やコンプレックスを持ちだしてくるのも癪に障る。時代と場所によっては、総スカンをくらいかねない勘違いキャラクター、なのかも知れないアン。大仰に喜んだり、悲しんだり、喜怒哀楽フルオープンで、どこにも「余白」というものがない。そんなアンだけれど、この世界では愛されている。愛され問題児。そして、アンの情動が落ち着いてしまった『アンの青春』以降は、どうも作品としては物足りなくなってしまうのは不思議なところで(オレだけか?)、やっぱり、このアンの世界は、コントロール不能な破天荒なアンがいて、そんな彼女のような存在でさえ容認する「愛情に満ちた人々」との関係性があるからこそ魅力的なんですね。ということで、やっぱりアンが好き、になってしまうのか、いや、「みんながアンを好き」を楽しんでいるのかな。

 

問題児の方が可愛い、という不思議なメンタリティがあります。おしつけがましい規律を蹴っ飛ばして、自分の好きなものを好き、と言える子どもたちの魅力。ところが、時代の変遷の中で、児童文学の主人公の座は問題児(もしくは異端児や野生児)ではなく、彼らを遠巻きに見守りつつ、翻弄されている臆病な子どもたちにとって変わられるようになってきました。クラスのアンチヒーローから、等身大のクラスメートへの共感の移動。これについては「児童文学における問題児の100年」に詳しいのですが(嘘です。そんな本はありません)、ナチュラルボーンで空気を読めない問題児でも、コミュニティの中で「生かされていた」特別待遇の時代は終わり、平凡な子が抱える生き難さの微妙さこそがドラマチックな時代に突入したようです。まるで、王候から市民へ「運命の悲劇」の主人公が変遷していったように。二十世紀後半以降の作品であるならば、アンの「腹心の友」、ダイアナこそが、主役にふさわしいのかも知れません。クラシックな「高潔な魂」を持った問題児の、その高潔さも、現代社会の文脈の中では、ウザいものと思われる可能性もあります。いや問題は、それを受容しない社会やコミュニティにこそあるのかな。

 

この文庫版には、巻末に大量の脚注解説がついています。松本侑子さんが、『赤毛のアン』を原文から訳した際の「翻訳ノート」で、固有名詞の解説や、引用の原典となっている故事や来歴、名作文学等について書かれているものです。『赤毛のアン』は、当初は、児童文学というより大人向けの小説として刊行されたそうで、非常に多くの「言葉の綾」が込められていたらしい。そういえば、このあたりの経緯について、以前、松本侑子さんが書かれた苦労話を読んだ記憶があります(『飛ぶ教室』に掲載されていたものかな。もう十数年前ですが。また、何冊か、アンの翻訳にまつわる本を松本さんは出されています)。翻訳というのは、原文に込められたダブルミーニングや、メタファー、縁語、本歌とり、換骨奪胎を、日本語で読む読者に、どのように感じさせるべきか、難しいものですね。翻訳者には膨大な知識量と日本語のセンスが問われてしまう。世界文学全集や聖書などのデータと、アンの原文を照会するという、当時(90年代当初)は、パソコン通信の電子図書館やCD-ROMを駆使したようですが、今なら、インターネットを使って、もっと詳細な検討ができそうです。この松本侑子さん訳の後にも、掛川恭子さんの「完訳版」なども出ているので、更にアンの世界は、読み解かれているのかも知れません。個人の読書というものも、頭の中のデータベースである「知識」を参照することで、掛け算式に増幅される気がしています。基本的に僕は「教養主義」で、知識や教養がある方が読書は深まる、という考え方なので、児童文学を深く感じとるためには、千冊の大人文学の読書が必要と考えています。嘘です。今日は、嘘ばかりついていました。ごめんなさい。

兵士ピースフル

この作品のテーマは重い。とても重いのです。なにかの「終わり」が近づいていながら、読者には、それが何かわからない。その「終わり」にいたるまでの長い時間が回想として綴られていきます。やがて物語に一筋の流れが見えて、たどりつこうとしている「終わり」が何なのかわかった時には、既に取り返しのつかない状況になっている、なんて・・・やりきれない思いがします。読むことがとても辛い作品。でも、あえて勇気を持って読んで欲しい。戦争の悲惨さを訴えた作品である、ということよりも、慈しむべき命の愛おしさと、その心映えを感じることのできる作品です。いくつもの惜しまれるべき命の物語。それぞれの命にとても大切な意味があることを、この長い物語を読むことが感じさせてくれます。20世紀前葉のイギリスの片田舎。一部の有力者が牛耳る封建的な土地で、弱者としての辛い暮らしを余儀なくされているひとつの家族が、それでも愛情に満ちた強い結びつきを持って生きていく姿には強く心を動かされます。それゆえに、その結びつきが理不尽な力によって壊されていくことが、なんともやり切れない思いがするのです。さて、どこから話をはじめたら良いものか。この物語を読み終えたショックから立ち直るために、気持ちを整理して、言葉にしてみたいと思います。

 

ピースフル。その少年たちの姓です。平和で穏やかなという意味を持つ名字。でも、なかなか少年たちの心は、穏やかというわけにもいかない毎日を送っていました。仲の良い三兄弟の長兄のジョーは、子どもの頃に患った病気の影響で脳に損傷を受け、知的な遅れがあります。それゆえに、ジョーは人を恨むことを知らない、穏やかで優しい子に育ちました。そんな兄を、二人の弟、チャーリーとトーマスは、意地悪な人間の偏見や差別から守るために日々闘っていました。森番であった父が事故死したことから、まだ幼い兄弟とその母は経済的な危機に追い込まれます。父の雇い主であり、兄弟たちが住む家の貸主でもある「大佐」は独善的で傲慢な人物。封建的なこの村では、有力者である大佐に逆らっては生きていけないのです。ちょっと鼻っ柱の強いチャーリーと弟のトーマスは、横暴な大佐に対して、ささやかな抵抗を試みますが、それが余計に大佐の怒りを買うこととなります。心優しい兄ジョーを守り、母を助けること。そして、近所に住む、極端に厳しい両親に育てられ、息苦しい思いをしている少女、モリーと親しく接しながら、兄弟は成長していきます。堅苦しい倫理感に縛られた田舎の村で不自由をしながらも、兄弟は信頼を深め、互いを思いやりながら暮らしていました。やがてチャーリーとモリーは恋に落ち、また同じくモリーに恋するトーマスは祝福しながらも複雑な思いで二人を見守ることになります。時に1914年、サラエボ事件を契機に始まった第一世界大戦は、この田舎の村にも影響を及ぼし始めました。大佐の圧力によって志願兵にさせられたチャーリー、そして、兄を追ってトーマスもまた兵士になります。二人が赴いたのは、歩兵たちが地を這う塹壕で激しい銃撃戦を行い、機関銃や手榴弾、毒ガスも使用される残虐な大量殺戮時代の戦場でした。しかし、兵士となったピースフル兄弟が目にしたものは、敵と殺し合う陰惨な戦闘だけではなく、戦場というゆがんだ世界が狂わせてしまった人間の心の彼岸だったかも知れません・・・。

 

ひどく理不尽な話です。ただただ悲しみだけが残る結末です。正義はどこにもない、のが戦場であるかも知れないのですが、それなのに大切な何かを守るため、誰かを守るためと、自分自身を鼓舞しながら、仲間と共に闘おうとする若者たちの、その姿は、悲しく切なく感じられます。極限状態においては、人間としての尊厳を守ろうとすることさえ、そんなにも過酷なことであるのか。平和や人権を守っていかなくてはならないと、深く考えさせられる作品です。テーマの重さもさることながら、トーマスの、チャーリーやモリーに対する微妙な距離感や気持ちの揺れが繊細に描かれていることが物語に膨らみを与えています。大切な人間に対する、深くあたたかい気持ち。そのすべて失われてしまう瞬間に向かって、物語が加速していくことを止められない。そして、読む手を止めることもできないのです。読み終えて、重い溜息をつくこと確実な一冊です。しかし、読むべき本ではある。是非、読み、感じ、考えて欲しい本と思います。

 

児童文学は戦争をどのような視点で描いてきたか、などと言い出すと相当、長い話になりますので割愛しますが、こうして「かつて子どもであった兵士」の心を繊細に描くことで、より、その悲惨さを伝えることはできるのだと再認識するところです。本書のように、十六歳の少年が戦場に赴くことは珍しいことでしょうが、柔らかい心が破壊されていく様子は、さすがに見るに耐えません(『クオレ』には、少年斥候の話とかもありましたね。いや、あの作品の場合はなあ・・・。)。本来、子どもにとって、戦場は遠くにあって、大人である「兵隊さん」たちが戦っているところです。しかし「兵隊さん」たちも、また子ども同様に柔らかい心を持っている。勇敢さやストイシズムの美学ではなく、現実の「兵隊さん」たちの魂を引き裂かれるような戦い、そして心のドラマを直視することは、かなりハードな体験なのですが、意味はあります。心と身体に消えない傷を負ってしまった「ベトナム帰還兵」と子どもが出会う、というパターンが米国作品ではいくつか思い出されます。子どもが、生々しい悲惨さと向き合う時、どのように心を動かしていくのか。この『兵士ピースフル』を、現代の子どもたちはどのように読み、感じるのでしょう。僕が小学生の時、先生が『私は貝になりたい』の話をしてくれて、これが、けっこうトラウマになっています(なので、今度の映画化はどうなのかと)。高校生の時に読んだ『ジョニーは戦場へ行った』が、やはり一番ぐっさりとつき刺さったような気がしますが、ショックはショックなのだけれど、あの当時の自分が読むことに意味はあったかな。無常観ではなく、正しい義憤を身につけるべき時機に読むべき本はあります。それにしても、評論社さんのYAシリーズの渋すぎるラインナップよ。YAには凡そ似つかわしくない「いぶし銀」という言葉を冠したくなってしまいますね。

 

ついでにお薦めですが、児童文学と戦争と言えば、むしろ銃後で、戦場に行ってしまった家族を心配して心を痛めている姿が労しいところ。最近読んだところだと『リリーモラハンのうそ』がそうした作品。1944年夏。フランス戦線に行ってしまった父を思いながら暮らす、個性的な少女リリー。反ナチス運動をしていた両親を処刑され、一人、アメリカに逃がされてきた少年アルバートと、別荘地でのひと夏の邂逅を描いた物語。子どもの頃にお母さんが亡くなり、お父さんも戦場に行ってしまっているリリーは、ちょっと心のバランスが崩れているところもあって、虚言癖があったり、空想があふれ過ぎたりするのだけれど、そうした破調もまた魅力で、心模様の描かれ方がとても魅力的。色眼鏡と「サンプルでもらった」口紅をつけ、手にノートを抱えて、スパイのような心持ちでそぞろ歩く、なんて子ども時代にありがちな一人遊びを演じているリリーの表紙画がとても良くって(吉川聡子さんの絵です)、作品にプラスアルファのイメージを加味しております。こちらも、是非。

高志と孝一

中学生男子のハートをガッチリつかむには「ちょっとしたエロ」が必要です。中学生男子の脳内メーカーでは「臆病な自尊心」「子どもじみた感傷」「スポーツ一直線」「メカ」「馬鹿一代」「学業成就」「知的好奇心」「友情と恋」「旺盛な食欲」「青雲の志」などの構成要素に混じって、少なからず場所を占めているのが「エロ」だからです。問題はこの「ちょっとした」という加減ですね。とくに90年代以降は、パソコン&インターネットという「なんでも見える魔法の箱」の登場で、より塩梅が難しくなってきている気がします。パンチラ(死語)程度のささやかさでかまわないのですが、中学生が簡単に「女子のパンツの中身」が照会できてしまう時世のパンチラになんの意味があるのか。というわけで、ここに、松の巨木を借景にした「盆栽」の風情というものを見るわけです(この直喩は難しいかな)。どのように塩を打つべきか。その、微妙な塩加減。塩オンリーでは料理にならないし、塩が効いてなければ旨みはない。いや、塩、というよりは、もう少しスパイス的なものかも知れません。その刺激こそが、中学生男子のハートを手繰り寄せ、児童文学離れを妨げられると言っても過言ではないでしょう。嘘です。過言です。ということで、しずしずとこの作品の紹介をいたします。いや、すごく真摯な中学生物語なんですよ、びっくりするくらいです。

高志と孝一は、従兄弟同士で親友。ともに同じ中学に進学したばかり。入学早々、ワルたちの呼び出しを受け、血なまぐさい洗礼を受けたりと、なかなかワイルドなスクールライフがはじまります。高志は体操部、考一は剣道部に入部し、それぞれの道で夢を実現しようと努力しますが、小学生時代に、万引きに手を染めたことがある孝一は、教師からの偏見の目を向けられることもあります。ワルとの縁を切り、一度貼られたレッテルも、強い心で吹き飛ばしていこうとする考一ですが、なかなか、心中、穏やかでもいられない。そんなさなか、孝一は病魔に襲われます。ちょっと具合が悪い、と思っていたところが、瞬く間に、脳腫瘍ということが判明。入院療養を続けるけれど、悪化するばかり。孝一が病気と闘っていることを見守りながら、高志は、いろいろな人たちと出会い、影響を受け、世界に対する目を見開かれていきます。剣道に打ち込み、考一がやり遂げたように、いつか鉄棒で逆車輪を決めることを目標にする高志。一方、数度の手術の甲斐なく、医師も手の尽くしようがないまま、悪化した病状で退院させられてしまった孝一。高志は、やせ細った盲目の孝一の手を握り締め、自分がここに一緒にいることを伝えます。この真摯で清廉な物語は、やはり、悲しい結末を迎えることになりますが、大切な人間の死を乗りこえて、少年が成長していく、震えるような強さを持った作品です。死は、確実にある。それは中学生も真正面から向き合わなければいけないこと。難病モノとパッケージされてしまうとしても、それでもこのテーマは、安易ではない感慨を抱かされるものですね。少年たちが、ちょっと乱暴にふるまったりしながらも、一本気でまっすぐな心を持っているだけに、読む側としても辛いものがありました。

本作品は、地方都市の中学生モノとはいえ、1990年当時の新作というには、かなり時代感覚がズレている気がします。少年たちの感受性の描かれようは1960~70年代のジュニア小説を思わせます。時代の位相を考えれば、相当な前衛作品と呼べるでしょう(いや、ポストモダンか)。詩人でもある数学の先生が、黒板に立原道造の詩を書いて解説してくれたり、それをまた、生徒たちが正面から受け止めたり、黒沢明の『姿三四郎』の上映会を見に行って、熱く語り合ったり、登山をして清新な山の頂に感動したりする。先輩が「藤村操」の遺書を手紙に書き送り、人生を真剣に生きるとは何かを後輩に問うたりと、まあ、かなりクラシックな青春像が展開しています。変。だからこそ良い、というところも多分にあります。高潔な先輩を尊敬したり、毅然とした生き方を貫いている女性に心を打たれたり、少年たちのスポーツや武道に対する情熱も、なみなみならぬものがあります。自分自身の甘えや根性のなさに対する克己心が描かれているところも良いですね。かといって清廉なだけではなく、ちょっとした心の隙間もあったりして、エロと未分化の淡い恋にも翻弄されます。失意に沈んだ高志が、お風呂に飛び込むと、お姉さんが入浴中で、一緒に湯船につかる場面があるのですが、この場面が不思議といいんだな。お姉さんの胸をチラ見しながら、思いをかけている同級生の女の子のことを想像したりするのも、ご愛嬌です。日常の中でも、ふいにシャツから透けて見えるブラジャーの紐にときめいたりするのも、百歩譲って、抒情的、と呼べるかもしれない味わい深いものになっています。とまれ、ささやかなエロ要素に着目しなくても、充分に楽しめる読み応えのある作品です(じゃあ今日の紹介文の冒頭はなんなのかと)。ほるぷ創作文庫の一冊。著者陣の渋さといい、このラインナップは、なかなか刺激的な本が埋まっていそうな予感もしておりますので、少し、読み進めて見ることにします。

お得情報

ネットサーフィンをしていたら、マックカードを無料でゲットできる方法が載っているサイトを見つけました。

どのようにゲットするかというと、ポイントサイトを利用して貯めたポイントをマックカードと交換するというもの。

 

私は、ポイントサイト自体利用したことがないのですが、これを機に始めようと思っています。

実際に交換して届いたらこのサイトで報告します!

試食したら買っちゃう

スーパーの試食販売コーナーで呼び止められて食べた後には大抵それを買ってしまいます。食べた以上買わなければ悪いような気がするのです。

そもそも全く興味のないものなら素通りするので足を止めた時点で多少は買う気があるということなのですが。

 

今日はおいしそうな一口サイズのケーキをトレーに乗せたお姉さんに試食を勧められました。子供達と私に一切れずつくれたので何気なく試食させていただき、「おいしいねー。買おっか?」とよく見ればそこで売っていたのはケーキではなくホイップクリームでした。クリスマスの手作りケーキ用にクリームを販売していたようです。

 

「あ…コレですか…?」とまぬけにも戸惑いながらクリームの紙パックを指差す私。

「はい、そうです!今お召し上がりいただいたケーキのクリームは今朝あわだてたもので…云々」と一生懸命説明してくれるお姉さんの笑顔を見ると「ケーキは作らないからいらない」とは言えなくなり買い物カゴに入れてしまいました。

 

そのままでシチューとか紅茶にいれても美味しいだろうから、まぁいいか。

ほぼ妄想

兄夫婦がやってきた。甥っ子だの姪っ子だの連れて。正直、親戚縁者と繋がりが薄い家族で育ってきたので血がつながってる他人ってのが苦手。しかも立場上、『行き遅れて実家にまだいる妹』じゃなぁ・・・。兄も接しづらかろう。義姉もしかり。


いつまでも実家に寄生してるのがイカンのよね。いっそのことマンション買っちまうってのはどう?なんか負け犬にありがちなパターンなんだけど。そしてどんどん婚期が遅れていく予感。むむぅ。


どうか一生親戚づきあいに悩まなくてもいいように誰か天涯孤独な人、嫁にもらってくださ~い。